広告

【書評】小野田寛郎『たった一人の30年戦争』で明かされる最後の日本兵の生涯

小野田寛郎『たった一人の30年戦争 書評

https://into-the-world.com

今回は、小野田寛郎『たった一人の30年戦争』という本について紹介します。

太平洋戦争終結後も約30年に渡りフィリピンのルバング島に潜伏し、最後の日本兵とも呼ばれた小野田寛郎氏がその生涯について語った本です。

スポンサーリンク

小野田寛郎『たった一人の30年戦争』の書籍情報

タイトル たった一人のの30年戦争
著者 小野田寛郎
出版年 1995年
出版社 東京新聞出版局

目次

本の目次

  • ブラジルの日々
  • 30年目の投降命令
  • フィリピン戦線へ
  • ルバング島での戦闘
  • 密林の「残置諜者」
  • 「救出」は米軍の謀略工作だ
  • 終戦28年目、小塚一等兵の"戦死"
  • たった一人の任務遂行
  • 帰還、狂騒と虚脱と
  • 生きる

小野田寛郎『たった一人の30年戦争』の内容紹介と感想

小野田寛郎の略歴

以下、小野田寛郎のプロフィールです。

生まれ: 和歌山県海草郡亀川村(現・海南市)
生年月日: 1922年3月19日
没年月日: 2014年1月16日(91歳没)
学歴: 久留米第一陸軍予備士官学校、陸軍中野学校二俣分校卒

1922年、和歌山県に生まれ、中学卒業後は貿易会社に就職。1942年、中国勤務中に徴兵検査を受け陸軍二等兵として入営。1944年、久留米第一陸軍予備士官学校に入校、さらに同年、陸軍中野学校二俣分校に入校し遊撃戦(ゲリラ戦)の教育を受ける。

同年12月、フィリピン戦線に送られ、ルバング島で同島警備隊の遊撃戦を指導せよという命令を受ける。以後、密林の中に潜伏しながら日本の敗戦後も30年間に渡り任務に携わる。

1974年、日本人旅行者の鈴木紀夫氏と遭遇し、その後、当時の上官である谷口義美氏から任務解除命令を受け投降。同年3月約三十年ぶりに日本へと帰国する。

日本帰国から半年後の1975年、ブラジルに移住。以後、現地にて小野田牧場を経営。1984年、日本で小野田自然塾を主催し子供たちにキャンプ生活などを指導する。2014年、肺炎のため東京都の病院で死去。

スポンサーリンク

30年に及んだジャングルでの生活

本書では、小野田氏の生い立ちから帰還後の晩年に至るまでその生涯が回想されていますが、大部分は約30年に及んだフィリピン・ルバング島での生活です。

どうやって生き抜いたのか?

太平洋戦争末期の1944年、小野田氏はフィリピン・ルバング島に赴任するものの、米軍の猛攻の前に部隊は早々に壊滅状態に陥り、島田庄一伍長、小塚金七一等兵、赤津勇一一等兵の3人と一緒にジャングルに身を潜め行動を共にするようになります。

小野田氏のジャングルでの生活はその後30年に及ぶことになりますが、ただ潜伏して身を隠していただけではありません。日本軍の存在を示すため定期的に畑を放火したり威嚇射撃をして示威行為に出るほか、友軍が来た際に備え地形の調査等をしていたと言います。

痕跡を残さぬよう場所を移りながら生活し、食糧は、水と塩に加え、マンゴー、ヤシ、さらには略奪した牛や米などで食いつないだとされています。

常に命を狙われる危険にさらされることで、動物本来の野生や本能がよみがえってくるように感じたと語っています。

あのころの私は、嗅覚も聴覚も人間の五感といわれるものが、鋭利な刃物のように研ぎ澄まされていたような気がする。風上に牛が近づけば、おおよその距離や頭数を予測できたし、木の葉の擦れる音で、生き物か風か感じ分けることができた。

p.94

当初は4人で行動していた小野田隊ですが、50年に赤津氏が投降。54年に島田氏、72年に小塚氏がそれぞれ警察隊との銃撃戦により命を落としました。一人になった小野田氏はその後もジャングルに残り戦い続けることになります。

スポンサーリンク

なぜ戦闘を継続し続けたのか?

小野田氏が30年にもわたり戦争を続けることになったのには、中野学校での教えとそこで培われた忠誠心によるところが大きいのではないかと思われます。

玉砕は一切まかりならぬ。三年でも、五年でもがんばれ。必ず迎えに行く。それまで兵隊が一人でも残っている間は、ヤシの実をかじってでもその兵隊を使ってがんばってくれ。いいか、重ねていうが、玉砕は絶対に許さん。わかったな。

p.57

と説かれ残置諜者としての諜報活動、遊撃戦の教育を受けました。また、小野田氏はフィリピン赴任時に参謀本部より次のような戦局推移の説明を受けていたと言います。

盟邦ドイツの降伏は時間の問題だろう。戦況はわが軍にますます不利だ。サイパンが陥落し、海軍はレイテ沖海戦で壊滅的打撃を被った。米軍は今後まず沖縄上陸作戦を敢行。九州・大隅半島に上がり、浜松を拠点化、九十九里浜上陸を目指す。本土決戦は必至である。最悪の場合、米軍による日本本土占領もありうる。その場合、日本政府は満州(現中国東北部)に転進、関東軍を中心に徹底抗戦を図る。大陸には陸軍八十万人の兵力が温存されている。反撃攻勢の時期は三年ないし五年後と想定される。

p.34

実際に、そう信じていた小野田氏は、1950年朝鮮戦争勃発時、マニラ湾の米艦艇や空軍基地の動きが慌ただしくなった時には、日本が大陸から反抗に転じたと確信、さらに、1960年ベトナム戦争の北爆のため、米爆撃機が仏印方面に連日飛行していくのを見た時には、仏印方面で日本軍が反撃に出たと判断したと語っています。

これらの現状誤認もあり、1945年8月15日以降、米軍の投降ビラや、家族や関係者らの捜索隊が何度も現地を訪れて置いていった新聞や雑誌によって、日本が敗戦したという情報は目にしていたものの、これらは謀略・工作活動であると信じて疑わなかったと言います。

住民から徴発したトランジスタラジオによって日本のオリンピック開催や新幹線開通などのニュースも聞き、おおよその日本の状況をつかんでもいたと言いますが、それはあくまでも傀儡政権のもとでの発展であり、本当の日本政府は満州に移り大東亜共栄圏の確立を目指し戦争を続けているものだと思っていたと言います。

日本の敗戦を信じるに足る正確な情報を得られないまま、必死で戦争を継続していたのである。

p.112

当時の状況をこう語る小野田氏でしたが、長年を共にした小塚氏の死から2年後の1974年、鈴木紀夫氏との出会いを経て、上官の命令があれば下山するとの言葉通り、元上官の谷口義美氏の任務解除命令を受け投降し、日本へ帰国することになるのでした。

おわりに

以上、小野田寛郎『たった一人の30年戦争』についての紹介でした。

本書を読む前は、小野田氏についての知識は軍人の鑑のような人で漠然と凄い人という程度のものしかありませんでしたが、本書で、潜伏していたジャングルの中で何が起き、何を考えていたのかをつぶさに知ることができ厳粛な気持ちになりました。

ぜひ一読されることをおすすめします。

人気記事

1

海外旅行の個人的な楽しみのひとつに空港ラウンジ巡りがあります。空港ラウンジは決して一部の特別な人しか利用できないわけでは ...

-